RAZMONEA事始① ~常民と基層文化~
私が主宰・指揮者を務める新しい合唱グループ・RAZMONEA(ラズモネア)は2度の体験会を経て、2026年4月に正式に結団いたしました!
体験会には延べ60名弱の方がお見えになり、スタートアップには25名を超える入団者を迎えました。こんなにも共鳴してくださる方がいらして、まことに嬉しい限りです。
グループの大枠のコンセプトはこちらの記事に記していますが、より詳しく主宰の考え、思いを知っていただくため、「RAZMONEA事始」と題してシリーズで記事を投稿していきたいと思います。
初回は、そもそも”常民”とは何か、についてです。
常民とは
そもそも「常民」という言葉は、民俗伝承の担い手であるごく普通の人々をさす言葉で、民俗学者の柳田国男が提唱し、その後継者である宮本常一と渋沢敬三らによって一般化しました。
民俗伝承とは、民謡や伝統芸能にとどまらず、農作業や狩猟などの労働行為、民具や衣服などの工芸品、方言のような言語文化までを包括するもので、ある集合体における基層文化の中核をなすものです。
常民が伝承する文化は基本的には無記名的です。つまり、それを作った人がだれかわからない、無名の人々の行為の集積によって育った文化なのです。
常民=普通の暮らしをする無名の人々、と言ってもよいでしょう。
一方、我々が普段カルチャーとして認知しているもののほとんどは表層文化で、ほとんどが記名的です。クラシック音楽、ポップス、映画、マンガ、ファッション、文学、お笑い・・・どれも作者や表現者の名前があり、その名前のもとにオリジナルの価値が生じるのですね。
柳田は、このような表層文化が発育するには基層文化の土壌が必要で、その担い手である常民の生活を見つめることで、過去から未来にわたる日本文化の歴史を俯瞰できると考えたのでした。
(これは日本に限った話ではなく、19世紀末から20世紀前半にかけてヨーロッパの周縁地域で盛んになった民謡の採集や口承芸能の文字化も、やはり民族のアイデンティティを基層文化に求めた結果でした。バルトークとコダーイの民謡採集の偉業は言わずもがなですね。)
ただ、「常民」と聞くと、今はもういなくなってしまったむかしの人、みたいに思われるかもしれませんが、私にとっては現代社会で日々を生きているありふれた人も、やはり常民といえます。我々もまた現代の民俗を形成し、その中で生きているのです。
合唱に参加している一人一人に生活があり、身体と精神の営みがあります。それは確かに常民の集いにほかなりません。
常民一座ビッキンダーズとともに
私が座長を務める常民一座ビッキンダーズは2017年の結成当初から常民的感性の探求をテーマに活動をしてきました。
RAZMONEAとは兄弟関係のようなグループです。一方はソロあるいはトリオ、もう一方は多数の声による合唱という違いはあれど、通底するビジョンは共有しています。
ビッキンダーズについては以前書いたnote記事をぜひご覧ください。
ところで、あまり表には出していないのですが、ビッキンダーズには座員の心得をまとめた座訓があります。
六項からなり、ビッキンダーズの目指すスタイルの道標となるように、私が考案しました。
この座訓は、私自身のプレイヤーとしての指標でもありますので、参考にここに掲載いたします。
常民一座ビッキンダーズ座訓
一、一座は日本の民謡、民俗芸能、民間伝承が元来持っている魅力、活力を心から愛するものである
二、一座はそれらを生み出し連綿と伝えてきた常民たちの生き方、喜怒哀楽、身体観、歴史を知り、それを自身の中に昇華しようと努めるものである
三、一座はそれらを保存する、あるいは伝承するということにとどまらず、現代における常民の生活の中で、それらが常に魅力、活力を発揮するような演奏を求めるものである
四、一座は現代的な文化と民俗的なものの単純な結合を目指すものではなく、民俗的なものが本来持っているおもしろさが生のまま自身の表現となりうる接点を探索するものである
五、一座は常民的なものを現代に息吹かせようと試みてきた先人たちを敬い、彼らの創作活動を追体験することによって、自身もまた創造的な眼を養うものである
六、一座は自身の常民的感性に基づいて、新たに常民の音楽・芸能を創造し、広めることを企図するものである
昔の常民に学ぶこと
この座訓の第六項にある「常民的感性」というのがとても重要で、これこそ常民たちが自分たちの"うた"を発明した源泉であろうと考えています。
常民的感性は、うたがまだ生活の中に根付いていたころの常民たちと、現代社会に生きる我々とでは、多くの部分で異なります。
しかし、完全に断絶されたわけではなく、いくつかの手がかりをもとに、昔の常民の感性に触れることはできると、私は考えています。
その手がかりとは、
- 環境
- 身体
- 生活(生活感情)
の三つです。
「環境」とは、そのうたが歌われていた地域や場所(屋外か屋内か、山か里か海か、畑か田んぼか、etc…)、季節や気候、仕事唄なら労働の内容など、うたを取り巻く外的条件全般のことです。
社会情勢、交通と物流、使用していた道具、祭事や儀礼など、その地域の歴史や風土も環境的要素といえるでしょう。
環境が変われば当然うたの中身も姿も変わります。そして、身体も生活感情も環境に依存して変化していきます。
「身体」とは、うたを歌っている人の身体性そのものです。誰が歌っているのか、大人か子供か、男か女か、一人か大勢か・・・。
機械のない時代に、どのような身体性、身体観が常民の生活を成り立たせていたのか?昔の常民には、現代人が忘れてしまった(あるいは見失った)身体の可能性があったはずです。
またどんな仕事かによって身体のあり方は大きく変わります。仕事唄においては歌い手の身体性を見つめることは非常に重要です。
「生活(生活感情)」、これがもっとも曖昧で、おおよそ後世に伝承されない微妙なものです。そのうたが歌われるのに、どのような生活があり、そこからどんな感情が起こっていたのか。
常民の歌ううたを聞いて、なぜかはわからないが唐突に心が震えて、激しい感動に襲われることがあります。ノスタルジーとか同情とかとは全然違う質のもので、常民の「声」の響きが、否応なしにこちらの琴線に触れるのです。
歌の中に長い年月をかけて織り込まれた生活感情が、ふと現代の我々のこころの襞にすべりこんでくる、そんな経験です。環境も身体も、時代と共に変遷していってしまいますが、生活感情だけは現代の我々にダイレクトにリンクする要素とも言えるかもしれません。
これらにどのようにアプローチしていくか、詳しくはまた別稿に譲ることにしましょう。
初回からちょっと長くなってしまいました。
次回は、"常民のうた"とは何かについてしたためます。













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