『追分節考』に挑む

5月3日に行われたトウキョウ・カンタートのコンサート「合唱音楽の生誕の季」に、縁あって栗友会合唱団のメンバーとして出演しました。

縁あって、というのは、実は妻が栗友会で長いこと歌っているメンバーの一員だったからで、ご一緒するのは実は初めて。

今回柴田南雄作曲『追分節考』を取り上げるにあたって歌唱指導を任命され、どっぷりとこの曲と向き合うことになりました。

半世紀以上前の1973年に東京混声合唱団によって初演されたこの作品は、信州と上州に伝わる追分節系統の民謡(信濃馬子唄、上州馬子唄、追分馬子唄、雲助唄など)を題材としたシアターピース作品で、日本の合唱曲のみならず現代音楽の中でも20世紀を代表する画期的な楽曲です。

民謡愛好家を自称している身なのに、実は『追分節考』を歌うのは今回が初めて!ほんとに僕はモグリなんです。いつかは歌うべき、憧れの、巨大な壁のような作品でした。

男声の歌唱指導を多めに、合宿を含めると8コマ以上の練習を共にしました。十種発声を毎回のウォーミングアップに取り入れて、一人一人の声を開放していくところから始まり、いわゆる”普通の”合唱曲とは全く異なるこの作品にふさわしい声、身体を獲得することを目指しました。

ビッキンダーズやコエダイでやってきたこと、また光岡武学に学んだ身体観などを総動員しながら、メンバー一人一人の声と向き合いました。百戦錬磨の合唱団員たちですが、その吸収力、柔軟性、探求心の豊かで幅広いこと!


4月には岩井海岸で1泊2日の合宿。2021年に「ビッキンダーズ海に唄う」という映像作品を撮影した思い出の場所で、屋外で、海に向かって声を発することによる自身の変化を追体験していただきたく、全員で浜辺に出て歌いまくりました!

この作品で扱われる民謡は元は山で歌われるものなのでほんとは違うんですが、なにも反響するもののない屋外で自らの声が中空に溶けていく様を体験した後の皆さんの声は見違えるようでした。

『追分節考』は単に民謡の旋律素材を並べただけのパッチワーク的コンポジションではなく、「声」のみによって追分節が歌われてきた環境と歴史、そして歌い手のマインドをリアルな手触りで空間に発現させる、真の意味での”シアターピース”です。

そのためには、クラシック声楽的な声でも、現代の民謡歌謡的な声でも何かが足りていない(あるいは過剰である)。

民謡=民の唄、その人自身のありのままの声で歌われることによって、唄がはじめてリアリティ(真実性)を持つ。僕の民謡への取り組みの根源となる部分を、改めて突き詰めることができた時間でした。


指揮者の栗山文昭先生とご一緒するのも実は今回が初めて。

先生の体調の関係で、本番直前までほとんどの練習を僕にお任せ(丸投げ?)くださいました。先生、練習の内容についてただの一度も僕に指示をされず、結果本当に僕のやりたいようにやらせてもらいました。

指導の際に自分の中で決めていたことがあって、何らかの方位、ある一定の完成形に向かうことを終始注意深く避けてきました。

この作品には「完成形」が存在しない。即興と遊び、インスピレーションとインテリジェンスの拮抗、その瞬間の「音」への絶え間ないリアクション、あらゆる要素が別の新しい印象を誘発し続けることこそがこの作品の神髄だろうと思うのです。。

その場で生まれえたものを否定せず、ひたすらに包摂しながらあたたかに育てること。それはまさに「合唱」という営みの、僕にとっての一番の美です。

栗山先生とは直前の稽古とホールリハ、本番の3回をご一緒できました。そのどれもが忘れがたい「演奏体験」でした。

先生の指名を受けて、冒頭にすみだトリフォニーの3階席の一番奥からソロを歌う役目をいただきました。ホールを声によって異化させ、時空間をいまの現実から引き離して、一気に場を「山」に変えてしまいたい、と思って無心に・ニュートラルに声を放ちました。

この作品における指揮者の存在感って非常に薄いというか、なにが行われているのかお客さんには見えないような仕組みになっていて、演奏している自分ですら指揮者のことをほとんど忘れていたのですが、最後の最後、女声のハーモニーが静寂に沈み込んでいったあと、静かに扇子を下ろす指示を出す栗山先生を見て、ああ、これは間違いなくこの指揮者の音楽だったのだと気づかされ、演者でありながら感動に震えたのでした。

はじめての『追分節考』がこの日でよかった。このためにずっとおあずけになってたんですね(笑)。

栗山先生、栗友会の皆さん、本当にありがとうございました!


ちなみに、今回のために『追分節考』そのものをはじめ、追分節系統の民謡のこと、柴田南雄の音楽論、明治~昭和期における民謡(俚謡・俗謡)の受容史を改めて紐解きました。

特にこちらの5書は必読です。

  • 永原恵三著『合唱の思考 柴田南雄論の試み』
  • 柴田南雄著『声のイメージ』
  • 柴田南雄著『日本の音を聴く』
  • 柴田南雄著『柴田南雄著作集Ⅱ』
  • 長尾眞道著『追分節の源流 正調小室(諸)節集成

柴田南雄著作集Ⅱに収められている「音楽の骸骨のはなし」は、それまでほぼ定説となっていた小泉文夫の旋法論(テトラコルドの組み合わせによって民謡の音階を解読)に真っ向から対峙した、相当に説得力のある、しかもクリエイティブな力作で、この”骸骨論”を飲み込むと、一見難しく思える日本民謡の旋律の解像度が一気に上がります。

柴田南雄にとってこの『追分節考』は、前衛的な作曲の試みであり、自身の民謡旋法論の具現化であり、「合唱」の脱構築であったろうと思いますが、それは50年たった今でも相変わらず新鮮でアトラクティブなままでした。

合唱, 民謡

Posted by Taku Sato