合唱指揮者が敵?!~サルデーニャの想い出~

※この文章は神奈川県合唱連盟発行の機関紙「カノン」109号(2020年4月発行)のリレーエッセイに寄稿したものです。ブログ転載にあたって一部加筆修正しました。


「君は合唱指揮者か。ということは俺たちの敵だな。」

2019年3月、私は地中海に浮かぶ島・サルデーニャ(Sardegna)にいた。この島には、Cantu a Tenoreと呼ばれる、特殊な発声法を用いた男声四部合唱の伝統がある。

私が歌手兼トレーナーを務め、日本で唯一それらの合唱をレパートリーとするグループ・コエダイr.合唱団(イタリア語名:Tenores de Tokyo)が、直に教えを乞うべく現地に乗り込んだのである。

島で初めて出会った合唱団は、人口1000人ほどのBonnanaro(ボンナナーロ)という小さな村のグループで、日本から来た我々のような奇特な集団を心からもてなしてくれた。

ところが自己紹介の直後、カウンターパンチのごとく食らったのが冒頭の言葉である。

ケラケラと笑う彼らに、ちょっと困惑しながらも「どうして敵なのですか?」と刀を返してみた。団のリーダー曰く、「この島の音楽には指揮者は必要ないからね。」なんだか答えになっていないような気がするが、とりあえずその場はハハハと流しておいた。

その後の彼らの稽古はまことに刺激的だった。彼らの音楽には譜面がなくすべて口伝、人が歌うのに合わせて耳で聞きとって歌い、覚えるまで何度も繰り返し歌う。短い曲でも自分のパートの旋律と言葉を覚えるので必死だ。小節線もないし、視覚で和音を判断することもできないが、千本ノックのような稽古のあとに声を合わせると、なぜか普通の合唱では考えられないほど精緻に美しくハモってしまう。

倍音を強調した発声、歌手の呼吸、耳を常に働かせていること、楽曲の和音構成など、ハモる理由はいくつも考えられるが、なによりも彼らが「声」のみによって表現を完成させる伝統に強い誇りを持っていることがまざまざと感じられた。

指揮がなくても、彼らは音楽に血と魂を込めることができる、いや、指揮があると何か大事なものが損なわれてしまうのかもしれない。彼らが言う「敵」とは、指揮者という職業ではなくて、指揮者が無意識に行っている「オリジナルの価値を減ずる」振る舞いのことではないか。

あれからというもの、“普通の”合唱曲を指揮するときにも彼らの言葉が耳に響くようになってしまった。まったく面倒な体質になってしまったものである。