「合唱コンクール」に飛び込む
7月29日、晴海の第一生命ホールで開催された東京国際合唱コンクールのシニア部門に、僕が指揮する東京稲門グリークラブが出場しました。
この団体の指揮者となって12年ですが、コンクールに挑むのはこれが初めて。そもそも僕自身がコンクール志向ではなかったのですが、昨年の演奏会の後に団員から「より深く一つの曲をきわめて練習してみたい」という要望があり、国内では珍しいシニア部門があるこのコンクールにエントリーしたのでした。
結果は銀賞。もっといけたんじゃないかという悔しさもあったけれど、後日届いた審査表と審査員コメントをみて、確かにその通り、と溜飲が下がりました。
ありきたりな感想ですが、結果よりもそれまでのプロセスの方がはるかに尊い。
コンクール後初めての練習で、出場した団員にコンクールの振り返りをしてもらったところ、全員が審査結果をしかと受け入れ、練習の中でのさまざまな気づきを敏感に記憶していました。機会が熟せばもう一回コンクールに出たいという声も。
コンクールを経たことで、音楽の捉え方、練習への取り組み方のバリエーションがグッと増え、団員一人ひとりの自発的な音楽衝動を引き出すことができたような気がしています。
「僕自身がコンクール志向ではなかった」と書きましたが、20代の頃はちょこちょこコンクールに出ていました。
合唱団の知名度を上げたいとか、面白い曲を舞台にかけてみたいとか、いい賞取りたいとか、さまざまな欲求を満たすためでしたが、あるときからパタリと関わらなくなった。
ちょっと疲れちゃったというのもありますが、「コンクール」という競技を主柱に据えてしまう合唱活動へのわだかまりがピークに達したのだと思います。
今はあまり聞かないけど、かつては「日本は合唱大国」「合唱が盛んな国日本」という文句がよく飛び交っていました。
しかし、盛んであることの証左としてコンクールの盛り上がりを引き合いに出すのは、正直恥ずかしいと思っていました。国内コンクールのレベルの高さを誇っている"合唱大国"など内弁慶そのもの。
…これ以上はよくある「コンクール論」に繋がりそうなのでやめておきます。そもそも論じられるほど僕にコンクールの知識がないので。
とまあ、いろいろ考えてコンクールはもういいやと思ってたんです。
ところが今年、こんな僕のところにコンクール審査員の仕事が舞い込んできました。
コンクールに関わっていない自分が審査なんてできる?自分みたいなものがやるなんておこがましいにもほどがある。そもそも自分は最近のコンクールのこと全く知らないぞ。
一瞬躊躇しましたが、もしかしたらこういうハズレものの意見もあった方が全体のバランスがいい、という主催者の思惑があるのでは、と勝手に深読み(邪推?)して、お引き受けすることにしました。
審査員としては新米で右も左もわかりませんが、審査に当たって以下のことを心がけました。
・評価基準を(演奏者に対して)可視化する
・第一に演奏者の美点、個性を発見する
・課題を具体的にわかりやすい言葉で伝える
根本において、コンクールをゴールではなく一つの経過点にして、その後永久に合唱を楽しんで欲しい、という思いがあります。
それにしてもコンクール審査員って大変。1日終えると体力も気力もすっからかんになります。これを連日務められる方々ほんとにすごい。
語りたいことはたくさんあるんですがまとまりませんね。こんなにコンクールに関与した年は今までにないので、いろんな思考がぐるぐる回っています。
久しぶりにコンクールに出る側になってみて、これを「ツール」としてテクニックの向上や、自分達の演奏の客観視、団運営のひとつのブーストとして用いることのメリットを強く感じました。
一方で、これに「功名心」とか「競争意識」が加わってしまうと、自分の場合は音楽が濁り出してしまうだろう、という自覚もあります。
散々繰り返されて来たであろうコンクール談義ですが、新米の不惑過ぎ男はいまその入り口をちらりと垣間見た、という程度なんでしょうね。
とりとめがないですが、今回はこんな感じで。
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