10年を生きる

3月11日という日に、何か特別な祈りの言葉を発することを、僕はやめてしまいました。

それは、10年前のこの日から始まった多くの苦難や悲しみを忘れてしまった、ということではありません。


2011年3月11日、僕は仙台市内のとあるスタジオで、13日に控えていたコレギウム・ムジクム仙台(音楽監督:今井邦男先生)のコンサートに向けてリハーサルをしていました。

ちょうどシュッツの「ヨハネ受難曲」のリハーサル中だったか、あの地震が襲ってきました。一瞬、「ここで死ぬのかも」という覚悟が頭をよぎります。果てしなく長い時間、身をかがめてスタジオの入り口で身を寄せ合っていたことを鮮明に思い出します。

その日から仙台に3日間、どうにか実家の岩手に帰って3日間、山形の友人の家に泊まらせてもらって日本海側経由で東京に帰るまで2日、合計8日間サバイバル的な生活を強いられました。
(実家は内陸だったので津波の被害はなく、地震で生活インフラがストップしていましたが、祖母と両親は灯油ストーブと土鍋を使って元気に生きていました。)

家に帰れない日が一週間以上あったにもかかわらず、僕は自分のことを被災者とは思っていなくて、言ってもせいぜいプチ被災経験者程度にしかすぎません。
でも、この地震と、それによって引き起こされた津波、原発事故によって苦しめられた東北の人々に対して、(一方的ではありますが)強い連帯意識を持った同胞だと思いたがっていました。そして、今もそれは変わっていません。

同胞が苦しみ、悲しんでいるときに、自分に与えられた役割とは何なのだろうか?

あの日から、東北の人々のことを想わずに、「ただ生きる」ということができなくなっていました。


東北には何度も「うた」を携えて周りました。

2011年5月、早稲田グリーの同期を中心にOB20名ほどで陸前高田と気仙沼の避難所7か所を訪問しました。そもそも今の被災地に歌が必要なんだろうか?という葛藤を全員が抱えつつ、それでもなお行くしかない、と腹を決めて臨んだツアーでした。

この時の経験が、自分の音楽人生を決定づけたといっても過言ではないかもしれません。

当時のmixiの日記を転載しますので、長文ですがお時間ある方はぜひご覧になってください。

https://contakus.com/choir/2021/03/post-1048/

その後も以下のようなツアーに指揮者、あるいは歌手メンバーとして参加しました。

2011年12月 早稲田グリーOB復興支援ツアー(福島市、いわき市)
2012年8月 Ihatov Voices(東京、盛岡、山田町、大槌町)
2012年12月 早稲田グリーOB復興支援ツアー(福島市、二本松市)
2013年8月 NAKED SINGERS 東北ツアー(むつ市、盛岡、石巻、仙台、東京)
2014年10月 早稲田グリーOB Singers(気仙沼市、陸前高田市)
2018年2月 ばばばユースクワイア(陸前高田市)
2019年2月 ばばばユースクワイア(陸前高田市)

いずれも思い出深い、毎回発見のあるものでした。それぞれについて詳しく述べると余裕で10万字を超えると思いますので、またいつかの機会に。


この10年のどの期間においても、「被災地に歌を届けよう」とか「我々には音楽しかできないから」というような言葉を決して言わないようにしていました。というか、そういった気持ではこれらのプロジェクトに関われていなかったと思います。

この地に生きる人たちと出会いたかった、人生を交えたかった。そしてその場に「うた」があれば、一層この人たちとつながれるはずだ。

人と歌を共にすることは、そこにいない人たち、いなくなってしまった人たちとの出会いも引き寄せる。それが生者であっても、死者であっても。

普段僕が歌っている「うた」も、いつの日かあの人たちの中にしみこんでいくのではないか。とすれば、今歌うこの「うた」をないがしろにすることはできない。

だから僕は、この10年をあの人たちと共に過ごしていた、のだと思う。


3月11日という日に、何か特別な祈りの言葉を発することを、僕はやめてしまいました。

それは、この人生において、生きることそのものに「祈り」が包摂されてしまったから。

今日も、明日も、10年後も、そして死ぬときにも。

音楽

Posted by Taku Sato